- ソックスを履かず冷えるにまかせたる指をはつ夏の陽に差し入れぬ
- これからが楽しいはずと人に言いわれに頷き塩むすび食む
前者は前集『桜桃の実の朝のために』の、後者は『百花蜜のかげりに』の巻頭の一首。15年という時間は、彼女が正しく年齢を重ねてきたことを教えてくれる。それは、短歌に関わる喜び。そして、550首はけっして少ない数ではなく、多様な、あるいは多層な彼女の容。
- ひっそりとだれにも見せぬ笑い顔ひとつひとつの席に置かれる
- チラシ広告の裏面のしろき宇宙ため母に八十一歳の夏
- いちまいのレースの驟雨がさっと過ぎまた戻りくる蝉声の渦
日常からだけではなく、日常の向こうから、彼女はリアリティを掴んでくる。「ひとつひとつの席」「しろき宇宙」「また戻りくる」。こうした空間や時間、そう、これらの「間」によって、私たちは日常の向こうという存在に気づく。
みんなが笑っているのに、誰にも見せるものではなくて。たかだかＢ４程度なのに、無限の大きさをもっていて。戻ってくるのは蝉声の渦だけど、ふっと驟雨が戻ってくるような。こうした揺れのなかに、私たちにとって大切な何かがある。
- 踏切の保線工事の三人のひとりが若く立ち上がりおり
- 搬送を終えたる帰路の救急車ゆるやかに昼の坂をくだれり
- ドローンが庭にふわりと降りて来る操作する人ベランダにいて
たとえば、「ひとりが若く」「ゆるやかに昼の坂を」「ベランダにいて」といった描写は、もの／ことのありようの厚みを提示する。この、柔らかく、しかし確かな描写が彼女の魅力。だから私たちは、彼女の掴んだ気色（けしき）に共鳴するのだ。
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